昭和五十七年七月二十六日 朝の御理解

御理解第五十九節 習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人んのおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。

 お道の信心をさせて頂いて、どんな場合でもどんな事柄でも、神様の御都合だといわれます。それがどうもわからなかったんですけれども、本当に私共に、確かに神様の御都合なのですから、それを有難く受けていく以外ないのだけれども、どういう御都合ですかと、せんじ詰めていかんと承知がいかないようなものが、私自身にも以前あったんですけれども、今合楽で言われる一切神愛論というふうな表現で言われますが、本当に一切神愛とわかったら、一切が神愛の御都合なのですから、そこを有り難く頂いていくという、私は合楽で習うた事、教えられた事は、ここに〇決すると思うんです。
 どんな場合であっても、本当に神様の御都合だけで納得のいけれる生き方を身につけたら素晴らしいと思うです。なかなか、ね、どういう御都合でしょうかというふうに、聞かにや承知しないと、いったようなものぢゃなくて、それがそんなら最近一切神愛であるという事が、わかればわかるほど、それが神様の御都合であるとと言うことになるのですよね。昨日久富繁雄さんが、お届けというわけでもないけど、お話しをしておられたんですけれども、あちらにお孫さんが二人おられます。上の方の子供が、通信簿ですか、それが大変悪かった、妹の方はままというところである。それでお母さんが、もうえらい剣幕で怒ってる。
 あんたが金光様を拝まんけん勉強が出けんとたいというて、えらい剣幕で怒ってるのを聞いて、ま大変有難かったと、こういうのです。まあ信心はあんまり好かんし、信心になかなか傾倒してこないけれども、少しは嫁に信心が、これは入れさせないかんち、思いよっとぢゃないやろかと思うて有難かったと、こういわれる、そして何か都合のまあ気分のよい時に話してやろうと思いますち、勉強が出来るとか出来ないからというて、幸、不幸が決まるのぢゃない。
 これはまあ久富家は私も頭が悪かったが国雄も良くなかった、だから息子に愛吉君、愛吉は久富家に似とるとぢゃろ、ひでよの方が妹です、ひでよの方はあんたに似てから、頭がよかごたるふうぢゃけども、私もなら国雄も頭はようないけれども大して不幸せぢゃないという事実があるじゃないかと、私もおかげ頂いておる国雄もおかげ頂いておる、頭が良いから悪いから、問題は人間が幸せになる事の為だから、ま、そういうような事を話してやろうと、今度嫁御がゆっくりしておる時に、と言ったような意味な話をしておられました。
 私はそれを聞いて感心した、せんじ詰めるというならば、例え妹の頭の良い悪いとかという事は、そんなにやかましガミガミ言うてもおこらんでもね、久富家に似とるけん頭が悪い、私も頭がようなかった、国雄も頭がようなかったばってん、今日親子とも幸福でおかげ頂いておる。ひでよはあんたに似とるけん頭がよか、良いから悪いからでもないけれどもね、そういうふに言うたら、嫁御にも気分ようお話が入っていくだろう、それも気分のよい時に、そういう話でもしてやると、心が、嫁の心が少しは神様に向かえるような事でと思うて有り難かったという意味の話しでございましたがね。久富さんが何をなら合楽で体得しておられるか、まあ難し言うと一切神愛、頭のよい悪いそれも神様の働きの中にある事、神様の御都合なものね。
 例えば、お百姓を継がなきゃならんのに孫があんまり頭が良すぎて、さあ大学に行った、大学、そしてもう百姓はしたくないという事になってね、かえってそれが幸せになるやら不幸せなるやらわからん、神様の一切が御都合だからという頂き方はね、いうならば難しい言うと一切が神様にお願いをして、起こってくる事これ一切が神愛だという事が体得出来ておられるから、そういうふうに思えたり言えたりするんだと思うですよね。頭の良い悪いどうぢゃの、こうぢゃの、ないがのとね、問題は人間が幸福にならなきやならん、いうならば心作り、人間作りの方が大事だ、というような意味の事をです、また折りがあったら話してやろうとこういうわけなんです。
 神様の御都合がのと、こう言えれる信心、私は合楽で何を体得したか、何を教えられたか、そしてそれを実際に現していくという事は、そういう茶飯事の中に一切がです、神様の御都合だと、どげな御都合なのかというのでなくて、神様の御都合として有り難く頂ける信心を体得されるという事がです、合楽で習うた事になるのであり、またそういう行き方で、そういう行き方が、自分の信心生活の上に頂き、現されるようになるという事が、そのまま私はね、おかげでこういう信心の体得をさしてもろうた、一切が神様の御都合だと、こうわかる、そういう信心を私は頂いた時にですね、師匠も喜びという事になるのぢゃないでしょうか。
 また自分としても本当に信心のおかげによってこういう事を体得さして会得さして頂いたという事になるのぢゃないでしょうか。信心さしてもらえば良いことばっかり、なら、ね、でけん子供が出来るようになったというような事もおかげでしょうけれどもね、そこを神様の御都合と受けられる信心を、体得して頂きたい、合楽ではもうそこだけを説いておるというてもよいくらいですからね、一切神愛論と難しい事を申しますけれども、どういう場合であっても神様の御都合ぞと、こういうたら本当に神様の御都合ですね、で、御礼が言えれるそういう信心を身につけて行きたいですね。    どうぞ